泣いて笑ってさようなら・上


一人部室で窓の外を眺める。外には薄ピンクの花が、俺の胸元には赤い花が咲いている。

古めかしい四天宝寺中には桜の花がよく似合う。とくに庭球部なんて掲げられた門には。入学した時この門の仰々しさに少し驚いたものだ。懐かしさを覚えた俺は思わずほんの少し笑みを浮かべた。こんな気持ちになるなんて。

俺は桜が舞うこの学校を見るのが好きだった。誰にも言わずに三年間、密やかに楽しんできた。
密やかに、とはいっても授業中に少し息抜きに窓を見たり部員がコートに来るまでの間眺めたり、遅くまでした自主練の帰りに少しのんびりと歩いてみたり、その程度だが。
それでもその光景は俺の心に安らぎを与えた。部で行なった花見なんかは騒ぐことが目的のようなものだったから俺にはあまり向かなかった。それでも仲間と共に楽しい時間を過ごすのは好きだから楽しいのは楽しかった。花見の帰りに一人でもう少し見て回ったのは内緒だった。存外俺は一人が好きだったのかもしれない。たまに訪れる一人の静かさが好きだった。部室で一人部誌を書いている時の静けさが一番好きだったかもしれない。…これは嘘だ。本当に好きだったのは一人でいた時にひょっこり現れる…

「こーんなところで部長さんがなんばしよっとね?みんな待っとーとよ?」

そんな言葉と共にひょっこり現れた千歳に俺は少し呆けてしまった。それから俺は目を閉じ口角をあげながら素直にここにいた理由を話した。

「なんもしとらんよ、ただちょっとしんみりしたかってん。三年過ごした場所をな、一人で眺めたかっただけや。」

それから俺は目を開けるとつい千歳を見つめてしまい、それを誤魔化したくて首を傾げ片眉を上げて挑発的に笑った。

「にしても最後の最後でお前が俺を探しに来るなんてなあ?どういう風の吹き回しや?」

言外に込めてしまった嫌味に千歳は曖昧に苦笑いをした。その笑みを見た時、やってしまった、と思った。こんな日にこんなこと言わなくても良かったはずなのに。後悔したがもう遅い。自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
そして千歳の浮かべたその笑みは俺にとっては馴染み深い笑みでもあった。俺は千歳千里のこの顔を、表情をよく覚えているからだ。千歳千里といえば俺の中ではこの曖昧な苦笑いだ。何かにつけこの男は笑って流す癖のようなものがある、と思っている。癖なのかは知らないが、癖だと思ってしまうほどにこの男は俺の前でこんな笑い方しかしない。この男の本当の笑みというものを俺はあまり知らない。そういう関わり方をしなかった、というのがその理由であり原因なのはわかっている。俺たちの間には友情のようなものはなく、あったのはそう、利害関係のような、どこかビジネス的なものだったように俺は思う。例えば俺が謙也のようにもっと情熱的な男だったのなら、金ちゃんのように遠慮のない性格だったのなら、小春のように鋭く察せたのなら、ユウジのように笑わせてやれたのなら、財前のように静かにけれど熱く慕えたのなら、銀さんのように広い心を持てていたのなら、健二郎のように待つことが出来たのなら、また違ったのかもしれない。
でも俺は、俺はそんな風になれない。なれなかった。俺はいつだってこうしてやったほうがいいのでは、という思考より先に部長としてこうしなければ、という思考が回ってしまったし、そうあろうとしていたからだ。例えば部活に来なければ探しに行き、千歳の話もあまり聞かないままにくどくどと説教をしてしまった。休み時間に会えば来れなかった日の理由も聞かずに休んだことを怒ってしまった。プリントを届けに行けば千歳の生活リズムも考えずに御節介を焼いた。その全ては部長としての行動でもありそして心配しての行動でももちろんあった。部長としての行動は俺なりの心配の仕方だった、なんて言うのは虫が良すぎるだろうか。
そしてそのどのときも千歳は曖昧に苦笑いをしていた。迷惑だったのだろう。小煩いと思ったのだろう。俺が千歳の立場ならなんやねんこいつ、と思わなくもない。仲良くもない、よくも知らない一年だけ所属した部活の部長。あまりに遠い。多分お互い友人と呼ぶより知人と呼んだ方がしっくりくる、そんな関係。考えれば考えるほど俺たちの間にはなにも、

「白石?行かんと?どきゃんしたと?」

ぐるぐると考え込んでしまっていた俺ははっと正気に戻りすぐ行く、と答えた。





千歳と共に歩く、なんてそういえばあまりしたことがないな、と思った。歩いたとしても大抵が部活関係の時のみだ。それも二人で歩くなんてなかなかなかった。初めてではないが数える程だ。不二戦の前に一度、そのほかにあっただろうか。
隣を見ると俺よりもずっと高いところにあるもじゃもじゃ頭。見つめていると今まではもじゃもじゃの髪の印象が強かったがこの男の顔がとても整っていることに気づいた。男らしい、というほどではないが綺麗ともまた違う、けれどもとても整った顔をしている。今までそんな風に思ったことなんかなかったのに今はその顔に目がいってしまう。こんなに近くで見たことなんてなかったからだろうか。なんだかどきどきするが、それよりもどれだけ俺が今まで千歳のことを見てこなかったのか気付いてしまった。こんなことで気づくなんて、と苦い気持ちになった。後悔ばかりだ。
ため息をつきそうになるのを耐えてまた俺は少し千歳のことを仰ぎ見る。今度は髪に花びらが絡まっていることに気づいた。もじゃもじゃの髪に桜の花びらが絡まりまるで春を捕まえているようだ。この男は女性的じゃないのにどうしてこんなにも花びらが似合うのだろうか。そういえばこのもじゃもじゃの髪に何かが絡まっているのは花びらだけじゃなかった。部活に来ない千歳を探しにいった時にはよく草やらが絡まっていた。それはそれで似合っていて、俺は確か笑ったのだ。そんなところで寝とるからやで、と。そう言って千歳を立たせコートに向かったことがあった。そのとき千歳はどんな表情をしていたのだろうか。あぁ、思い出せない。そもそもに見ていなかった気がする。でもきっと、多分また、曖昧に笑っていたのだろう。人に笑われていい気がする人などいないだろうから。数ヶ月前の自分の幼さに少し息がつまる。自業自得、まさにその通りとしか思えなかった。

「白石ほなこつどきゃんしたと?俺ん髪にまたなんかついとーと?言ってくれなわからんけん…どこね?」

千歳がこちらを向いた。その顔は少し拗ねたような表情をしていて、そんな幼い表情をする男だったのか、と俺は瞠目しそうになった。知らないことばかりで嫌になりそうだ。俺がそんな風に思っているのなんてまるで知らない千歳は手で髪を触っているがそこには花びらはない。それがなんだからしくて、俺の知ってる千歳だ、と思うと少しほっとした。

「そことちゃうで、ちょう屈みや。桜の花びらがな、ついとるからとったるわ」

俺は千歳にそう言い、千歳は素直に屈んだ。初めて触った千歳の髪は俺が思っていた以上に柔らかくて、なんだかむずむずして、そして少し楽しかった。

「ほら、とれたで。もう大丈夫や」
「ありがと、白石。ほなこつ俺ん髪はよう色んなもんが絡まるたい。でも自分では全然気付かんと」

千歳はほなこつしょんなかねーと軽やかに笑った。その笑顔はいつもの曖昧な苦笑いではなく、俺には初めて向けられた笑顔で、ああ、お前は本当はそんな笑顔をするのだな、と心の中で一人ごち、ずんっと心が重たくなった。
こんな風に関わればよかったのだろうか。わからない。今の俺と今までの俺に違いはあったのだろうか。わからない。人との関わり方を知らないわけではないのに、この男、千歳千里との関わり方がまるでわからない。どうしてお前は今になってこんなことで俺にそんな風に笑いかけるのだ。どうして、とぐずるようにいいそうになる。この心を吐露しそうになる。だが言うわけにも吐露するわけにも悟らせるわけにはいかないので、俺も笑って、前にもあったな、あんときは草やった、と返しまた二人で歩き出した。



手が震えている。今更と言いたい怒りか、今更なにかを望めると思う自分への羞恥か、今までの自分への後悔か。きっとそのどれもが今俺の手を震わせている。やり直したい、とは思わない。きっとやり直してもまた俺は同じようにしか関われない。部長として、そういう風にしか関われない。白石蔵ノ介はそういう人間だからだ。そんなこと自分が一番よく知っている。笑って流すのは千歳だけじゃないな、とまた心の中で一人ごち、絶望的な気持ちになった。






そんなことを考えているうちに名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。いつのまに下を向いていたのだろうか。よく見ると少し遠くに謙也たちの姿が見え、その姿に俺はほっとした。みんなと一緒にいたらきっと俺は普段通りになれるはずだ。いつもの、たとえ辞めたとしてもいまだに引きずる部長然とした白石蔵ノ介になれる、そのはずだ。卒業式だからだろうか、少しセンチになりすぎていた気がする。きっと、だから俺はいつもなら考えない、考えないようにしていたことばかり考えてしまったのだろう。俺が一人になっていたのはただ本当に、本当に自分の卒業するこの場所を、自分が三年間を過ごしたこの場所を、もう一度だけ、一番過ごした場所から静かに見たかっただけだったのだから。そう思うと少し心が晴れた。そうだ、あともう少しで全部綺麗に終わる。この三年間、泣きそうになりながら、苦しくて逃げ出しそうになりながらも必死に築いてきた白石蔵ノ介が完璧なままに終わる。もう、あとはみんなで写真を撮れば解散のはずだ。四天宝寺中テニス部部長としての有終の美を綺麗に笑って締めくくろう、それで何もかもが美しく、綺麗に終わる、と俺はそう思った。感慨深い気持ちにすらなった。




「ねえ、白石、ちょっと言いたかこつあるけん時間ばもろてもいい?」

遠くに見えていた謙也達が少し近くに見え出したところで、横にいた千歳が俺の顔に自分の顔を近づけてそんなことを言った。千歳は曖昧な苦笑いをしていて、俺は何をするつもりなのだろう、と少し恐くなった。しかし俺はそう思ったことを微塵も出さないように気を付けて、ええよ、何や?と少し微笑んで答えた。すると千歳は、うん、ありがと、と言い俺の前に回り込み、いつもは背が高いためか猫背気味な背をきちんと伸ばして立った。そして少し恥ずかしそうな顔をして、えへへ、と笑った。お前でも恥ずかしいとか、そんな気持ちを出すのだな、と俺は思い、また一人気持ちが少し沈んで、そんな事すら嫌になった。でも俺がそんなことを思ってるなんて出さないように頑張ったおかげか千歳は気づく様子なく話し出す。それで良いのだがなんだか釈然としない気分だ。


「えっと、…ね、あーなんか恥ずかしかね。うん、そんな顔せんで、うん、今、今言うけんね…こほん、…俺はね、白石んこと、好いとーと。一年間だけやったけど、ありがとう。白石いつも迎えに来てくれるけん、ちょっと甘えてしまってばい。すまんね、それでね、いつも迎えに来てくれたことほなこつ感謝しとうよ。白石はいつもほなこつ優しくて、ほなこつ恐かったっちゃ、…いい意味でね。白石の声ばすると嬉しかったと。白石に心配してもらうと、怒られるとほなこつ嬉しかったと。俺んこつ心配してくれる人がここにもおるって、そう、思えたけん。俺は大阪に一人でおるけんちょっと、うん、結構寂しくて、でも、白石いつも会うと心配してくれるけんほなこつ、ほなこつ嬉しくて、でもいつもはそう思う自分が恥ずかしくて、お礼なんて言えんかったと、だけん今言わせてね、一年間ほなこつありがとう。ほなこつ、ほなこつ感謝しとうよ。ずっと、ずっと言いたかったと、でも気恥ずかしくて言えんかったと。…だけん今言わんと本当にもう言えん気がして、…あはは、でもやっぱちょっと照れるっちゃね」

赤みの増した顔で穏やかに笑う千歳の、細めた瞳が柔らかく俺を見つめる。嘘みたいだ。千歳の言葉も、この優しい眼差しも、なにもかもすべてがどこか悪い夢のように思える。冷や汗が溢れ少し寒気がしてきたように思う。どくん、どくん、と自分の心音がうるさく聞こえるような、そんな錯覚が全身に周り、喉が引き攣る。今きっと俺は、酷い顔をしている。でもそんなことどうでもいいと思えてしまう。だって、だってこんな、こんなこと、こんなことあるはずがない。だってそんな、俺たちは、俺たちの間には、

「白石?」

俺は思わず一歩後ずさる。千歳は俺が後ずさった分一歩こちらに寄って来た。また俺は一歩後ずさる。そしてまた千歳は俺に一歩近づき、今度は俺の右腕を掴む。
大きな手のひら。熱くて、厚くて、豆のある、こんな手をしていたのか。知らなかった。そんなことを思いながら俺は馬鹿の一つ覚えのように掴まれたまま後ずさろうとした。
でも、千歳に腕を引かれ行かせてもらえなかった。

「なして逃げると?」
「べ、つに逃げてへんよ。ええやん、ほら、自分先に謙也達の方行っとき、俺もすぐに行くから、やから、」

離して、と俺は小さく言い下を向いてしまった。だって耐えられなかったのだ。だってあんな、あんなこと。

千歳に掴まれている腕が熱い。服の上から掴まれてるはずなのに千歳の熱を感じて俺はどうしたらいいのかわからなくなる。今さっき見つめられた千歳の瞳の優しさがなんだか恐い。うるさかった心音は早鐘に変わりどきどきと大きくまた身体を蝕む。そしてまた、手が震えてしまう。これはきっと恐怖だ。恐くて震えるのだ。俺はそう思い込む。知らないことがこんなに、こんなに怖いものだったなんて。だって本当に知らない、こんな千歳知らない。お前と俺の間には何もない、何もなかったはずなのに、お前は俺を迷惑に思っていたはずなのに、だからいつだったあんな、あんな笑い方しかしなかったんじゃないのか、だから俺はいつだって。わけがわからなくなりなんだか涙が溢れて来た。ぐすぐすと小さな子供のように泣いてしまう。あぁ、嫌だ。でも止まらない。止められない。涙も恐いのも何もかもが、何もかもが止まらなくて、苦しくて、わけがわからなくて。すると慌てたような千歳の声が聞こえてきた。心配、をかけているのだろう。けれど俺は混乱して、千歳がなんて言ってるのかよくわからなくて。だからなのだろう、俺は無駄だとわかっていても止まらない涙と一緒に今日あったことが全部流れてしまえばいいのに、と馬鹿なことだけを考えてしまう。そうすればこんなにわけがわからなくなんかならなかったはずのに。なんて、こんなこと、普段の俺なら考えないのに。でも、仕方ないじゃないか。だって、だってそうだろう。こんな、こんなこと、こんなこと、どうしたらいいんだ。俺は一体、どうしたら。

「ねえ白石、今俺が言ったことの何がだめだったと?教えてくれんね?頼むけん、ね?泣かんで、泣かんで、ね?白石に泣かれると俺どうしたらいいかわからんばい…お願いやけん、泣かんで、ね、ね?しらいし…、ね?おねがいやけん…ね、」






しらいし、なかんで、と千歳の声がやっと聞こえた俺はいつの間にか抱きしめられていることに気がついた。抱きしめられているだけじゃなく頭を、背中を優しく撫でられていた。しかも何故か千歳も泣いている。なぜだ。泣き疲れて少しぼうっとした頭では何が起きてるかわからない。ただ千歳の大きな身体に抱きしめられているのがなんだかあったかくて、さっきまで怖かったはずなのに安心してしまう。いつのまにか解放されていた腕を少し千歳の背中に添わせた。何故か添わせてみたくなったのだ。でもどうすればいいかわからなくて、少しだけ千歳の服を掴んでみる。千歳の胸に頭を預けてみる。とくん、とくん、と聞こえる心音がなんだか心地いい。自分の心音はあんなにうるさく思ったのに、何故だか千歳のこの音はとても心地よかった。もっと聞きたくなってぎゅっとすると、上から泣き止んだ?もう大丈夫と?と涙ぐみ濁った、けれど安心したような声が聞こえてきた。急に恥ずかしくなった俺はもうちょっと、と隠れるように千歳の胸に顔を押し付けた。もうちょっとって何がもうちょっとなのだろう。だめだ、頭が回らない。しかし上からよかよか、と軽やかで優しさが滲んだ声がまた聞こえてきて、その知らない声に俺は心の中で嬉しいような、恐いような気持ちになった。




「ほなこつもう大丈夫と?」

俺がやっと落ち着たので離れると、千歳はむず痒くなるような優しい声をかける。俺は、どう反応していいかわからず、おん、と小さく答えた。
でもなんだか気まずくて、恥ずかしくて。自分の気を反らせたくて、目元をごしごしと我ながら荒く擦ると千歳は俺の腕をまた掴み今度は優しく微笑んだ。それがまたあんまりにも優しく微笑むものだから俺は恥ずかしくて仕方なくなった。

「白石、そんな風に目こすったらいかん、腫れてしまうと」

そして千歳はやめなっせ、とどこか諭したように言った。そのどこか兄のような慣れた振る舞いをする千歳に、俺はそういえばこいつには妹がいたのだった、と思い出した。そして俺は妹と同じ扱いをされているのでは、と思うと今まで心を占めていた羞恥心は身勝手な怒りに変わってしまった。

「べつにええし、もうこんだけ泣いてもうたら何したって別に変わらんやろ。やからはよ離せや」

俺の新たな苛立ちを察したのか優しい顔のままやれやれ、というように肩をすくめる千歳に俺はお前ほんな感情豊かやったか、とつい愚痴が口をついてしまった。すぐにしまった、と思った俺が千歳を見上げると、千歳は不思議そうに顔を傾けていた。

「?、ようわからんこつ言うとや。俺はいつもこうたい。それとも白石には俺が違うように見えとると?」
「そ、んなことない。そんなことないからほんまはよ離さんかい、いつまで掴んどるつもりや」

んー、と不思議がる千歳は俺の抗議も抵抗も何も気にならないのか俺の腕を掴んだままびくともしない。それが嫌で、離してもらいたくて、俺は腕を振り回す。でもすぐに千歳に危ないけんやめなっせ、とまた諭された。やめてほしいんはこっちの台詞や、となんだか悔しくなってきた。

「まあ、よかよ、でも一つ聞きたいことがあるけん教えてほしか。よか?」
「なんもようないわ、はよ離せって言うとるやろ!もう!なんなんやお前!ほんまに!」
「だから危ないけんやめなっせ」

しょんなかね、と千歳が楽しそうに笑う。笑うなや、そんな楽しそうに笑っといて何が仕方ないねん。あほ。今日だけでその顔を見慣れてしまいそうだ。嬉しくなんかない。嬉しくなんか、ない。恐くも、ない。苦いともいえない気持ちが溢れて俺の中の全てが揺らいでしまいそうだ。

腕を離して欲しくて、でも抵抗しても抵抗してもびくともしない千歳に俺はなんだかだんだん疲れてきた。今日の俺も今日の千歳も変だ。こんなの知らない。知らないことだらけだ。ぐちゃぐちゃの頭と心に疲れて黙り込んだ俺を見てか、千歳はやっと腕を解放した。遅いわぼけ、謙也にでもスピード講習受けてこいやあほ、と鬱々と考えてしまう。こんなの俺じゃない。なんだかまた泣けてきた。自分でも本当に情緒不安定すぎないか?と思うとまた苦しくなった。

「また泣くと?そんなに腕掴まれたんが嫌だった?すまんたい、謝るけん泣くんやめなっせ、ごめんね、白石。泣かんでほしか。ね?謝るけんね?ね?」

そんな言葉と共に千歳はまた俺を抱きしめた。だからどうして抱きしめるんだ。それでどうして俺は少し安心するんだ。涙も止まらないしわけがわからないしもう全部が嫌だ。今日は卒業式なのに。あともうみんなで写真を撮って解散さえすれば、俺の三年間は綺麗に終わったはずのに。どうしてよりによって最後の最後でこんな、こんなことになってるんだ。この三年間で築き上げてきた白石蔵ノ介がばらばらと音を立てて崩れていくような、そんな気がして、俺の中の何かがおかしくなってしまった。今までは子供っぽいといってもぐすぐすとまだ静かに泣いていたのにもうだめだった。崩れた何かを悲しむように俺はわんわんと泣いてしまった。また自分でも止められない。俺を抱きしめていた千歳はぎょっとしたのか白石!?と叫ぶように言ったが知るものか。半分はお前のせいじゃないか。それにまた自分でも止められないだ。止められるならとっくに止めてるし、そもそもに泣いたりなんかしたくないのに。なのに、なのに。どうしようもないじゃないか。こんな、かっこ悪い自分、自分でもいやだ。認めたくない。でもそう思えばそう思うほどに苦しくて、悲しくて、どうしようもなくて、俺の涙は止まってはくれなかった。もうほんとうに、どうして俺はこんなにも、こんなにも。



「白石!?!?!?お前らなんか来おへんと思ったらなにがあったんや!?千歳お前何白石のこと泣かしてんねん!」

千歳に抱きしめられたままわんわんと泣いているとだだだっと音がして謙也がいきなり現れた。なのに俺はそれでも泣き止まなくて、嫌で嫌で仕方がなくて、せめて謙也にこんな顔を見られたくなくて千歳にまたぎゅっと抱きついた。千歳の動揺が伝わるような手で宥めるように撫でられる。どうしてそんなに優しくするんだ。こんな風だから俺は、と涙が止まらない苛立ちが怒りとなり千歳に向いてしまう。

「いや、謙也待って、俺もほなこつわけがわからんたい。いきなり白石が泣き出して、」

その千歳の言葉に苛立っていた俺はカッとなってしまい、抱きついていた千歳の身体をなかば突き飛ばすようにして離れるとぐちゃぐちゃな頭で叫んだ。

「俺が悪い言うんか!あほ!そら俺も悪いけどお前やって今日に限って変なことばっかりやんか!お前がこんな、こんなことするから!あほ!あほあほあほあほあほ!!!!」

八つ当たりをした俺は、わーん、と子供のようにまた千歳に抱きついた。そのあともぐずるようにあほ、あほ、と繰り返しながら千歳の大きな胸にお前のせいやで、というように縋った。千歳はそうするしかないのだろう、ごめんね、ごめんねとまた優しく頭を撫でた。千歳の優しいけど動揺が滲んだようなあたたかい声に俺は、心が串刺しにされたような気持ちになって、俺こそが謝らなければならないのに、と思いながらもこのあたたかさを手放しがたくなってしまった。謙也のうるさい声が今のこの状況を現実だとさらに俺に示しているようで、そのまま聞いていたいような、耳を塞ぎたいような、そんな気持ちになった。




俺が今度こそ泣き疲れてごめん、とぐすぐすとなったままでも顔を上げると二人はぱっと雰囲気が明るくなった。

「こ、今度こそ大丈夫と?白石ほなこつ今日はなにがあったと?いや、もうよかよ、言わんでいいけん泣かんで、お願いやけん…!」
「せ、せや!白石喉乾かんか!ちゅーかこんだけ泣いたら乾くっちゅー話や!待っとれよすぐになんか持ってきたるからな!」

千歳の言葉に今さっきのことを思い出しまた泣きそうになると二人は慌てたように、まさしく取り繕ったように笑い、謙也はびゅっと風のように居なくなった。お前ほんまに速いな。俺はぼんやりとそんなことを考えながら千歳を見ると、千歳は居なくなった謙也を恨むように見つめていた。そしてはあ、と息をつき俺に向かい合った。

「まあ、白石が落ち着いてくれたならほなこつ俺はもうよかよ。ごめんね、俺が泣かしてしもたとやろ?俺白石に感謝してたこと伝えたくて、ばってん、こんなこつになって、」

ごめんね、と曖昧に苦笑いする千歳に俺はお前のせいちゃう、と反射的に返したが俺自身さっきまでお前のせいやと思っていたのでそれが伝わってしまったのだろう。気にせんでよかよ、と馴染み深すぎる笑みを浮かべて俺の頭をまた優しく、けれど先ほどまでのあたたかさを感じない手で撫でる千歳に、俺はまた身勝手に、でも本当にどうしようもないくらいに悲しくなって、頭を撫でる千歳の手を縋るように握った。握ったその手の温度と、それでも感じられないあたたかさが悲しくて、悲しくて、今まで言わないように、ひたすらに耐えてきたものがついに、溢れてしまった。

「ほんまに、ほんまにお前のせいなんかやないんや、全部な、全部俺が悪いんや。わかっとるんや。今まで千歳にちっとも優しくしてやれんかったって。部長としてしかお前と関わってこんかったって。やからお前は俺に笑ってくれんくて、俺とお前は友達にもなれんかったって。でも、しかたないやん、俺、部長やんか。お前のことだけ特別に扱ったあかんって、そう、思ったんや。金ちゃんにもお前にも、言わなあかんことは言う、させなあかんことはさせる、そう決めてずっとおった。やからお前がおらんかったら怒ったし探したし説教した。でも俺の判断でお前のすることの善悪決めて、怒って。」

溢れた言葉につられるように馬鹿になってしまった涙腺からもまた涙がでてしまう。千歳は嫌に静かで、それがまた恐くなってしまって、でももう話すことさえも止められなくなってしまった俺は、ひたすらに溜めてきた思いをなんとか言葉にして話す。

「そんなんばっかやのに、そんなんばっかやのにおれ、俺な、お前が俺には笑ってくれんのずっと嫌やってん。金ちゃんとかと楽しそうに笑うお前見てずっと、ずっと嫌で、ほんま、なんで俺にはほんな顔してくれんのとか、俺やってお前と仲良くしたいのにとか、思って、でも、それって凄い都合良いことやんか。自分は相手の嫌なことしか言ってないのに、してないのに、なのに、そんなこと、思っとるなんて言えんかった…なのにお前、今日はずっと優しくて、ずっと、ずっと俺に笑ってくれて、それが嬉しくて、お前と友達になれるかもって、思って、でも、おれ、そんなこと、言えんって、今更どう言ったらええんやって、全部おれの、俺の都合のいい夢かもって思えて、嬉しいけど苦しくて、もう、わけ、わからんくなって、それで、それでおれ、ほんま、ほんまごめ、」

ごめん、と言おうとしたところで千歳はもうよかよ、と言って俺をまた抱きしめた。抱きしめてくれる千歳があったかくて、それが俺は本当に嬉しくて、今日一番強い力で千歳の背に手を回す。