貴方だから


さく、さく、と雪を踏む。
はらはらと雪が降って、冷たい雪が髪や顔に触れる。
頰に落ちた雪が解けて涙みたいに顎まで流れて、落ちる。



寂しさは、突然吹雪のように訪れる。
それはぼくが上手く妹の世話をできなくて、母の手伝いをできなかったときや、父や母の顔がぼくじゃなく妹にばかり向いていると感じたときだ。いつもそうなるわけじゃない。でも寂しくなるのだ。たまらなく寂しくて、でもこの感情をどうしたらいいのかわからなくて、こうして歩く。
歩いたら感情がなくなるわけではないが、なにもせずに考えてばかりの方が辛いのだ。歩いたら目に見える何かに気がいって、見えるものについて考えたりしているうちにいつのまにか、とりあえず感情の吹雪はどこかに行ってくれる。

今日もそのつもりで、家を出たのだ。
今日は泣いている妹をうまくあやせなくて、ジムリーダーとしての午前の仕事が終わった母さんが「小さいからしかたないね」と苦笑いで代わりにあやしてくれた。妹は母さんが抱き上げて、少しあやしただけで今までずっとずっと泣き止まなかったのが嘘みたいに泣き止んで、きゃらきゃらと笑い出した。妹の笑顔を見た母さんもおんなじように笑っていて、ぼくは(なんで)という思いと妹に母さんをとられたように気になって、ここにぼくはいちゃいけないのかな、なんてそんな風にさえ、思ってしまった。

そのあとすぐ母さんが妹をベビーベッドに寝かせてあげて、ぼくに「すぐにご飯作るからね」と笑ってくれたが、(妹のご飯がさきなんでしょ)、と心の中でいじけて、それでも母さんがぼくを見てくれたのが嬉しくて、小さく「うん」、とだけ返事をした。

でもやっぱりご飯を作ったあげるのは妹の方が先で、母さんに抱っこされてる妹を見て、心が締め付けられた。

それから母さんがせっかく作ってくれたお昼も、あんまり味がしなかった。午後からはたしか父が帰ってきて留守番をすると朝言っていたこともあって食べたらすぐに「ぼくあそびにいってくる」と言って出てきたのだ。
後ろで母さんが「気をつけるんだよ」と声をかけてくれるけど、きっと視線は妹に向いていて、そう思うだけでもう涙が出そうにすらなった。



さく、さく、さく、と雪のまだ誰も踏んでないところを見つけてはぼくの、という思いで踏んでいく。踏めば踏むほど綺麗だったところがなんだが汚くなっていくのが悔しくて、途中からは綺麗なところを探して見て回るだけにした。
だけどただ雪が降り積もっていくのを見ているばかりでは流石に飽きてきて、暗い思考が、寂しさがひっそりと忍び寄ってくる。寒さだけではない震えを止めたくて、ぎゅっと両手を祈るみたいに握る。



そんなときだった。
ぷわわ、と聞いたことのない音─声?を聞いたのは。ぼくはそれを理解できずに(なんだろう?)と辺りを見渡すと空に紫色のポケモンが浮いていた。

(知らないポケモンだ…)

「きみ、野生のポケモンなの?」

伝わるかわからないけど、話しかけてみる。

「ぷわわ…」

ぷわわ、と答えるそのポケモンはどこか寂しそうで。そのまるでテーマパークで貰えると風船みたいな見た目と、寂しそうな雰囲気にぼくは無意識に親近感を覚えて、母さんに野生のポケモンには気を付けること、と言い含められていたことを忘れてしまって、ぼくはこのポケモンはトレーナーさんとはぐれて寂しいのかな、思ってぷわわと話すポケモンを撫でてあげたくて手を伸ばした。

「寂しいの?ぼくも寂しいから、一緒に遊ぼうよ」

撫でてあげたら、少し雪が積もっていて冷たくて、でもぷわわと話すポケモンは嬉しそうに目を細めて「ぷわ!」とぼくの周りをぐるぐると回った。楽しそうにぼくの周りを回るぷわわを見て、ぼくもなんだか少しだけ寂しさが紛れたような気になって、「ふふ」、と笑みが溢れた。

それから二人で少し追いかけっこや隠れんぼをした。ぷわわはとても人馴れした様子で、(やっぱりこの子は誰かのポケモンなんだろうな、あとで母さんにトレーナーさんを探してもらえるように頼もう)、と思っているとぷわわが風船の持つところみたいな足をぼくの目の前でふわ、ふわ、とはためかせるから、ぼくは(持てってことかな?)とその足に誘われるように手を伸ばすと、突然誰かに後ろにぐい、と引っ張られた。

「え?」

ぽふ、とぼくは気付いたら誰かの腕の中にいて、これは母さんや父さんに気を付けろと言われている知らない人なんじゃないか、と思って「い、いや、いやです!やめてください!」と声を出して、気が引けたけど腕や足で相手を自分の隙間を作って逃げようとした。

「あっこらばか、勘違いすんな、いって、こら、暴れんなって…あ゛ー!ったくちょっと大人しくしとけ!」
「あぎゃっ!?」

知らない人は僕を強く抱きしめて、それでぼくはその人の胸元で圧迫されてしまった。「むぐ、むぐぐ」とそれでも抵抗を試みたけどその人の力はとても強くて、途中でぼくは疲れて諦めてしまって、(ぼく、どうなるんだろう)とはじめての恐怖で体が小さく震えだす。

でもその人はそんなぼくの状態なんか知らない様子で、ボールを投げてポケモンを出す。

「フワンテは子供をさらうって聞いてたけどまじでさらうとこなんか初めて見たわ。…おら、さっさと向こう行きな、それとも俺とバトルすんのか?」

彼がそういうと、ぷわ!とぷわわが慌てたような声を出したと思ったら、ぷわわ〜とその声はどんどん小さくなっていった。


ぼくはそれだけでぷわわがどこかへ飛んで行ったことがわかって、悲しくて、この知らない人に怒りが湧いた。疲れた体でまた暴れたら知らない人は「うお!?」と言ってぼくをやっと離してくれた。

「あなたはなにがしたいんですか、うちはたしかにジムリーダーですけど、おかねなんてないですよ」
(ぷわわはせっかく友達になれたのに…!)

震えた声で、精一杯睨みつける。
知らない人は、褐色で、ぼくよりずっと背が高い。けどわりと子供で、10歳ちょっとくらいにしか見えなくて、学校や母さんたちに言われたような大人じゃない。それにぼくを見る目はキルクスの晴れた空みたいに澄んでて、なにもかもがぼくが想像していた人と違って、(あ、あれ…?)とぼくも混乱してしまう。


その人は一瞬ぽかん、と目と口を開いてから何かに気づいた表情になって、からりと笑う。

「いや、悪いな。いまのポケモンは子供さらってどっかいっちまう事があるんだよ。だからそんな警戒すんなって、」

な、とぼくの頭を撫でる。

今日は雪が降るくらい寒い日なのに、この人からは太陽みたいなあったかさを感じる。
(あったかい、)
その温かさに流されてしまいそうになって、でも、と耐えて、彼の手から逃げる。

「でも、だからって酷いじゃないですか、いきなりあんなことするなんて」
「悪かったよ、俺も焦っちまったんだよ」

そう言って彼はまるで許せよ、とでもいうようにまた優しくぼくの頭を撫でてられたことと、久々に撫でられた頭が気持ち良くて、つい警戒心が解けてしまう。いつのまにか目を閉じて、手に縋るみたい頭を押しつけてしまっていた。
(気持ち良いな、)

暫くしてからハッとして目を開けると、彼は面白いものでも見るみたいにニヤニヤと笑っていて、ぼくは顔が熱くなるのを感じた。

「あの、これは、違うんです。違うんです…ぅ、うぅ」

喋れば喋るだけ恥ずかしくなって、言葉に詰まって、まごついてしまう。
そんなぼくに彼は目を細めた優しい笑顔で「気にすんな」って頭をぽんぽんしてくれる。
そのまま彼は手を退けてしまったから、ぼくはじ、っとその手をつい見つめてしまった。

「また撫でてやるよ」

そんなぼくを見透かすように彼は少し意地悪な顔で、でも優しい雰囲気の笑顔をぼくに向ける。見透かされたのも、そう言って貰えて少し…結構嬉しくなった自分も恥ずかしい。

「う、大丈夫です…」

「遠慮すんなよ」

なっ、と肩を抱かれる。
抱かれた肩からゆっくり移ってくる彼の体の温かさにまた絆されて、絆されてることがまた恥ずかしくて、精一杯の抵抗として下を向いて小さく「はい」と呟いた。上から彼の笑った声が聞こえて、その声にすらもう、ぼくは心地よさを感じ始めていた。



「そういや俺キルクスジムに向かう途中だったんだよ、案内してくれるか?」
肩を抱かれたぼくは彼の向かうままにしばらく一緒に歩いて、(この人はどこに向かっているんだろう)、と疑問を覚えた頃に、彼は今思い出したかのように言った。

「ジムチャレンジャーなんですか?」

彼にそう聞くとニイ、と白い歯を見せて「俺様は未来のチャンピオンになる男だぜ、なんならいまからサインしてやろうか?」なんて戯けていうものだからぼくも少し楽しくなって「サイン、ほしいです」と彼にねだった。
気を良くした彼は俺様のサインは高いぞ!と言ってぼくの頭に彼の顎を押し付ける。
それが少し痛くて、すごく楽しい。

いつのまにか感じていた寂しさなんて吹き飛んでいて、温かい気持ちだけがぼくのなかに溢れていた。



それから今までの旅の話を聞きながらぼくはキルクスジムまで彼を送った。
ジムにつくと彼は「上で俺様の試合見ろよ」とぼくを観客席側の通路に背中を押した。ぼくも彼の試合が楽しみで、「はい、見てますから」と伝えて慣れた通路を通っていつも座っている前の方の観客席に座る。



ぼくは母さんがジムリーダーを務めるキルクスジムの試合をいつも欠かさずに見ている。それは将来ぼくをジムリーダーにしたい母さんに勉強になるから、と言われたからであったし、ぼく自身が観たいからだった。
ポケモントレーナー同士の試合は幼いぼくにとって普段感じる小さな寂しさを吹き飛ばしてくれる最高のヒーローショーで、ヒーローはもちろん母さんだ。ジムリーダーとしての母さんはとても強く、かっこよく見えて、家にいる時の優しく快活で、ときにとても恐ろしいいつもの母さんとはまるで違って見えて、幼いぼくは実は別の人間なのでは、と思ったことさえあった。そんな母さんに勝つ人は少なく、キルクスジムはトレーナーたちにとって鬼門である、と町の人から何度も教えてもらった。それがなんだか誇らしくて、教えてもらうたびに嬉しくなった。

だから母さんが負けるところはあんまり見た事がないし、母さんが負けるなんて思ったこともない。


けれど今日会った彼─そういえばまだ名前を聞いていなかった─が負けるところも見たくない。
いつだって母さんの応援しかしてこなかった。チャレンジャー側の人に興味さえ持った事がなかった。きっとぼくは本当の意味でトレーナー同士の試合に興味なんか持ってなかったんだな、と今更気付いて、今まで見てきたトレーナーさんに申し訳なくなった。


そうやって考えているうちに、母さんと彼が出てきた。二人はボールを模した円の外側に立って、ボールを構える。

(とりあえず、今は試合を見よう)




母さんと彼─キバナさんの戦いが終わる。

歓声が響くスタジアムの中で、キバナさんは溢れんばかりの笑顔で自分のポケモンに抱きついている。

ぼくは思わず立ち上がって、スタジアムの柵を強く強く握りしめる。そうしないと飛び出して、駆け出してしまいそうになる。心臓がばくばくして、全身が沸き立つ。

(こんな試合、観たことない!すごい!すごい!)

─ぼくはきっと、このとき初めてトレーナー同士の試合に感動したし、きちんと試合、というものを理解した。


歓声が鳴り止んで、人がいなくなってようやく、ぼくは柵から手を離すことができた。
それでもまだ感動が、与えられた衝動が僕の中からなくならなくて、ぼう、と夢見心地にスタジアムの中心を見つめる。


「よお、俺様の試合ちゃんと見たか?」

ぐい、と心地いい声と腕に引かれて、ぼくは後ろを向かされる。

「キバナさん、試合ちゃんと見ましたよ」

「俺様、強いだろ」ニイ、と笑ったキバナさんはとてもカッコ良くて、なんだか眩しくて、思わず目を細める。そんなぼくにキバナさんは心配したのか「どうかしたのか?」なんて言うものだから、「あなたがすごく、かっこよかったから」、と素直に気持ちを伝えてみた。少し恥ずかしかったけど、伝えたくなるくらい、さっきの試合の中のキバナさんは本当にかっこ良かったから。

「……」

なのにキバナさんは黙りこくって口をまごつかせている。この人なら「当たり前だろ!」なんて喜びそうなものなのに。

「お前、ずるいな」
「何がです?」
「なんでもねーよ…」

キバナさんはそういうとそっぽを向いてしまう。それが少しぼくには面白くなかったが、まあ、いいかと思って彼の隣を通り過ぎて、階段登る。キバナさんはすぐに「どうしたんだ?」とぼくの方を振り向いてくれる。それが少し嬉しくて、思わず笑顔になってしまう。
そうして階段を登って、彼の身長を超えたところでぼくもキバナさんの方を向く。
キバナさんはわけがわからない顔をしていたけど、ぼくをじっと見つめて、ぼくが話し出すのを待ってくれる。だからぼくは息を整えて、覚悟を決める。


─これはきっと、ぼくの人生が決まる瞬間。

「あのね、キバナさん。今日ぼく決めたんです」

そう彼に話しかけるとキバナさんは目を少しだけ見開いて、「なにを?」と口角を上げる。

「ぼくね、ポケモントレーナーになります。今日初めて思ったんです、ポケモントレーナーになりたいなって」

それからぼくはキバナさんに今までのことを話した。
母さんにジムリーダーを継いでほしいと度々言われていたことが実は少し重たかったこと、妹のことばかりで母さんはぼく自身のことをあんまりみてくれなくなって寂しかったこと、ポケモンたちのことは可愛いとは思うけどトレーナーになるつもりはなかったこと。

─でも、今日のキバナさんと母さんの試合で初めて感動したこと。

全部伝えて、伝え終えた頃にはぼくはなんだか涙が出ていた。きっと誰にも言ったことがなかったことを、心の中に少しずつ降り積もっていっていたものを言葉にしたから。

泣いたぼくをみてキバナさんはそっとぼくを抱きしめてくれた。キバナさんの体温はあったかくて、伝わる心音の穏やかさに安心する。
キバナさんは少しだけぼくと体を離すとぼくの目元を拭って、「んな話、今日あったばっかの俺に言って良かったのか?」と気遣うような視線をくれる。その優しさが嬉しくて、だからあなたに伝えたんです、と心の中で伝える。

「あなたが素晴らしいトレーナーだからですよ、今日の試合を観なかったらぼくはこう思ってません」

それを言葉にするのはまだ少し恥ずかしくて、流石に少し言葉を変えた。伝えた言葉は上手く彼に伝わったのかわからないけど、「そうかよ、」と彼らしくないぶっきらぼうさでそっぽを向いた彼の耳が赤くて、きっとこれで良いんだろうな、と思った。



─きっと明日からは寂しさなんて感じなくなる。そんな暇、きっとなくなるから。

見上げた空はいつの間にか晴れていて、少し前まで雪が降っていたことが信じられないくらいの、快晴だった。